ハムレットの世情日記

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zoom RSS 【歴史】 討ち入りに加わらなかった赤穂浪士の選択(転職の視点から)

<<   作成日時 : 2009/10/28 21:52   >>

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 赤穂浪士が吉良上野介に討ち入りをした忠臣蔵は有名だ。その陰には討ち入りに参加しなかった赤穂浪士が多数いた。討ち入り成功後、不参加組は世間から卑怯者・臆病者(脱盟者)と批判されることになった。

 彼らは本当に卑怯者・臆病者だったのだろうか。ここでよく言われるのが、理想か現実かということである。私は、二項対立ではなく、2つの現実がありどちらを優先すべきか、その判断の違いだったと考える。

【赤穂浪士討ち入りの背景】

 事の起こりは赤穂藩主・浅野内匠頭長距が1701年3月14日に吉良上野介義央を斬りつけたことだ。このとき浅野は京都の朝廷から来た勅使の接待役、そして吉良は接待役である浅野を指南する立場にあった。

 領地は浅野が5万3,000石、吉良は4,200石と浅野の方が広く領有していた。ただ、朝廷からの官位は浅野が従五位下、吉良は従四位上で吉良の方が格上だった。

 浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と言いながら斬りつけた。しかし、致命傷とならず吉良は助かり、浅野は取り押さえられた。

 実は「この間の遺恨」が果たして何かはいまだに不明である。幕府の取調べでもその内容が吟味されることはなかった。塩田技術説(吉良が塩田技術を教えるよう浅野に依頼、それを断わったので吉良が恨んでつらく当った)、乱心説、吉良のイジメ説など諸説ある。

 浅野は取り調べに対し「幕府に対する恨みはない。吉良には私的な遺恨があり討ち果たそうとした」と答えた。一方の吉良は「恨まれる覚えはなく、浅野殿の乱心である」と主張した。

 当時の法律、武家諸法度ではもし喧嘩なら両成敗で双方が処罰された。乱心ということなら吉良は処罰されない。

 事件を知った将軍・徳川綱吉は激怒、浅野の切腹と赤穂藩の取り潰しを命じた。事件即日で切腹・取り潰しは異例のことであり、家臣から「もう少し詮議をした方が」との声も上がったが、綱吉は重ねて命じた。その日のうちに浅野は預けられた陸奥一関藩の庭先で切腹し果てた。一方の吉良は無罪。何の処罰も下されていない。 繰り返すが、喧嘩両成敗は当時の法律にあり、かつ常識であった。それが無視されたことが赤穂浪士の討ち入りにつながったのだ。

 事件は赤穂藩にも届き大騒ぎになった。藩士を集めての大評定では、城を明け渡す恭順派と徹底抗戦派に分かれ紛糾した。

 筆頭家老だった大石内蔵助が「開城し、その上で長距様の弟、大学様を立てて御家再興を目指す」と提案し家中をまとめようとしたが、恭順派の次席家老・大野九郎兵衛は反対、大石の藩資産処分案にも反対した。大石は家臣全員に平等に分けようとした。これに対して大野は家族・使用人の数に応じた処分案を主張した。

【突きつけられる2つの現実 理想より現実を選んだ脱落者たち】 

 処分案は結局、大石の案が公平だということで通った。この案だと上に薄く下に厚いものであった。しかし、大野案が不公平かと言えばそんなことはない。ここで「2つの現実」。

【2つの現実(1) 「下に厚く」で去った上級家臣】

大石:下級家臣ほど貧乏。ならば下に厚くするために家臣均等割は当然。

大野:上級家臣は家族や使用人もいる。家臣均等割だと家臣本人や家族はともかく、使用人はすぐ生活できなくなる。
 

 経済官僚でもあった大野は、大石案だと、使用人がすぐ困窮することを見越していた。下級家臣を重く見るか、使用人や家族のことまで見るか、これは議論が分かれるところである。大野は大石案が通ると、大石が非現実的な人物と見限り、赤穂城明け渡しを前に赤穂を家族ともども立ち去った。大石は分配資産の受け取りを断わったこともあり、旧家臣の間で人気が高った。

 大野は赤穂浪士討ち入り事件の最初の脱落者とも言えるため、芝居などでは悪役として描かれている。実際には、開城後には大野と同じく赤穂を後にする家臣も多数いた。

 赤穂城明け渡し前に大石は行動をともにする盟約を藩士に求めます。盟約の誓約書を神文という。提出した藩士は当初はその数約60人。開城後、京都・山科に移住した大石の下にはさらに増え、約70人、さらに御家再興で再就職に期待する旧藩士の参加から最大で約120人にまで増えた。

 この間に大石は「すぐにでも討ち入りを」と主張する急進派をなだめる一方、御家再興を幕府や関係者に働きかけている。綱吉の時代、藩取り潰しはめずらしくなかった。一方、取り潰し後に御家再興が成ったケースも46件中9件あり、荒唐無稽な話でもなかったのである。

 すぐにでも討ち入りを、とする急進派の主張は大石にとっては軽挙妄動でしかなく、手紙には「下手な大工は事を急ぐ」と書いていさめている。「下手な大工」とは言うまでもなく、急進派のことです。ここでも「2つの現実」が対立する。大野と同様、赤穂を後にして、御家再興も考えない転職派も多数いたので、ここでは三者の主張を紹介する。

【2つの現実(2) 親から転職先を紹介され、悩み、自殺】

大石 :御家再興は不可能ではなく前例もある。そのためにまずは尽くすことが肝要。

転職派:赤穂藩の本家・広島浅野家は御家再興の援助を断ってきた。ならば御家再興は難しく、まして日々の暮らしもある。早めに見切りをつけて転職先(仕官先)を探すべき。

急進派:討ち入りを急がないと貧乏暮らしに負けてしまう。だからすぐにでもするべき。


 神文を出した萱野三平は、転職派と大石の主張との間で揺れ動く。萱野は事件の第一報を赤穂に伝えた藩士であり、彼自身は大石と行動を共にする覚悟だった。しかし、その事情を知らない父親はかつて仕えていた幕府旗本に事情を話し、仕官できるようにした。

 仕官自体は好条件であり、悪い話ではない。だが、大石と一緒に討ち入りすることはできなくなる。まして、討ち入りの盟約を父親に話すわけにもいかなかった。といって父親の好意を無碍にするわけにもいかず…。

 悩み苦しんだ萱野はとうとう自殺してしまった。28歳の若さであった。大石あての遺書には「神文を口外できず、父親孝行の間でどうすることもできず、自殺する」と書かれている。

 事件から15ヵ月後の1702年7月、浅野の弟、浅野大学は広島浅野家にお預けという処分が下される。これは御家再興の道が断たれたことを意味する。

 ここに至って、大石は御家再興を断念、討ち入りを決意します。大石と対立、暴発寸前だった急進派も収まり、これで浪士の議論はまとまったか、と言えばそうでもなかった。大石は、盟約の当初に提出させていた神文を1人ひとりに返した。これを神文返しと言いう。大石としては、この神文を受け取れば、盟約から脱落したかどうかが分かる。神文を返してもなお、討ち入りしようとする浪士こそ同志と見ることができたのである。ここでも「2つの現実」の登場である。

【2つの現実(3) 家族、意見の不一致、健康問題で半数が去る】

大石:討ち入り派:討ち入りすることこそ、武士の面目が立つ

脱盟者:家族を路頭に迷わせるわけにはいかない


 大石としては討ち入りを第一に考えた。しかし、脱落者(脱盟者)からすれば、家族や目の前の生活が第一であった。神文返しによって、最大で約120人いた参加者は約60人が脱落した。その理由としては御家再興の際の仕官が目当てだった、家族の存在、意見の不一致、健康問題などが挙げられる。

 11月、大石ら55人は江戸に入り、討ち入りの機会をうかがう。しかし、ここでも大都市の誘惑などに負け、さらに脱落者が出た。

 その中には仲間から金と服を盗んで逃亡した者もいた。胸を痛めながらも情報を探る大石。12月には14日に吉良邸で茶会があるとの情報を入手、この日を討ち入り決行の日と定めた。討ち入り直前で参加浪士は48人。さらに土壇場で吉良邸探索に目覚しい活躍をした毛利小平太が脱落した。

 ここでさらに日を改めるか、それとも決行か。大石は決行を決断した。そして大石ら赤穂浪士は討ち入りに成功した。

 討ち入り後、寺坂吉右衛門が姿を消します。密命を受けて消えたとも言われていますが詳細は不明である。このため、四十七士ではなく四十六士とする説もある。

 大石らは浅野家の菩提寺、泉岳寺に引き揚げ、吉良の首を捧げた。一方、旗本・大名の監視役である大目付にも配下を差し向け「主君の無念を晴らすための忠義の行動だった。今は幕府の沙汰を待っている」と伝えた。

【討ち入り成功 名誉は守られ一躍ヒーローに】 

 討ち入り後、武士や庶民の間では赤穂浪士を称える声が熱狂的と言ってもいいほどに広まった。幕府としては下手な裁定を下せば、赤穂浪士への賞賛が幕府への非難に変わることは理解していた。さらに一度は吉良をおとがめなしとした将軍・綱吉としても、忠孝を説く儒教を自ら講じるなどしており、「忠義の行動だった」とする赤穂浪士を簡単には死罪にできなかった。

 一度は助命に傾いたが、結局、幕府は赤穂浪士に切腹を申し付けた。「切腹と死罪は同じ」と考えるかもしれないが、実は大きな差があるのだ。死罪・打ち首だとそれは罪人として扱うことを意味する。罪人ということは討ち入りも単なる犯罪だったというわけになる。その点、切腹は武士にのみ許された手段であった。

 切腹申し付け、ということは大石らの訴えが認められたことを意味する。さらに言えば、吉良家は討ち入りの対応を咎められ、領地召し上げ・取り潰しとなった。大石ら赤穂浪士の無念が晴らされた瞬間である。晴れ晴れとした気持ちで、彼らは死に臨んだ。

 その後、広島浅野本家にお預けとなっていた浅野の弟・大学は旗本となり、浅野家は再興された。それから大石の遺児・大三郎は広島浅野本家に召抱えられた。石高は1,500石という高禄。何と父親と同じです。大石本人は切腹して果てたが、大石家は武家として再興されたのである。

【卑怯者と言われながらも、家族を養った脱落者たち】 

 ここで忠臣蔵のドラマは終わりとなる。しかし、脱盟者はまだ70人以上が生存していた。彼らは一体どうなったのか。

 赤穂浪士を賞賛する世論は、同時に脱盟者を卑怯者と非難した。脱盟者は苦難の道をたどることになった。中には赤穂藩士だった過去を隠す者、改名する者、さらには父親が恥と思い切腹するケースもあった。

 奥野将監は大石の右腕として活躍、盟約を交わした浪士の中では大石の次の高禄であった。1,000石の奥野は神文返しのときに脱盟した。

 一説によると、奥野は大石が討ち入りに失敗した際、第二波攻撃を考えていたとも言われている(『江赤家秘録』)。転居を繰り返した後、現在の兵庫県加西市に落ち着いた。そこでウエ門と改名、農民となった。荒地を開拓、ウエ門田として現在も残っている。卑怯者と非難されても、奥野は家族を守り、養い、そして死んでいった。ドラマにはならなくても、それは転職の1つの形と言える。加西市の隣町には彼の墓が残っており、そこには「浅野内匠頭家臣」と彫られている。

 大石の叔父である小山源五右衛門も脱盟者の1人だ。考え方が合わないとして脱盟した小山は娘が結婚していたものの、「卑怯者の娘」として離縁されてしまう。それから彼には息子がおり、仕官先が決まっていなかった。小山は娘の再婚先と息子の仕官先を求めて、頭を下げ続けた。そのかいあって、娘は広島浅野本家の家臣と再婚、息子も15石取りの家臣として仕官できた。

 息子の方は13年後、145石取りの代官にまで出世。厳島神社の大鳥居建立(正確には再建)を命じられ、1739年に難工事を成功させた。それから200年以上たった1996年、厳島神社は世界遺産となった。

【恥にまみれても家族と生活を守ること、それも転職の成功例】 

 討ち入りを果たした赤穂浪士は死んで名を残した。一方、脱盟者は卑怯者と非難されながらも家族を守った。理想か現実か。私はその対立ではなく、決断を迫られた時点でどちらの現実を優先したか、その違いだと思う。
 忠義を守り通した四十七士は立派だが、肩身の狭い思いをしてもなお家族を守った脱盟者もまた立派だったと私は強く思う。

 現代における会社がこけそうな時の転職も同様だ。地位や名誉を求めて名前を残そうとすることだけが転職の成功例と思われがちだ。しかし、恥にまみれても家族と生活を守ること、それも転職の成功例と言えるはずだ。私は前者のほうを求めて一度転職した。皆さんなら「2つの現実」が対立したとき、どちらを優先させるだろうか。

【参考文献】

・『その時歴史が動いた〈7〉』(NHK取材班/ KTC中央出版/2001年)
・『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』(野口武彦/筑摩書房/2007年)
・『忠臣蔵101の謎』(伊東成郎/新人物往来社/1998年)








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