ハムレットの世情日記

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zoom RSS 【西洋史】ハプスブルク家の栄光〜(2)

<<   作成日時 : 2009/11/01 13:24   >>

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ハプスブルグ家はスイス北部の貴族の家系でオーストリアの王家であり13世紀以来神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた名門である。1273年ルドルフ1世の時、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれ、13〜14世紀を通じて領土を拡 張して、オーストリアを領有した

1438年にアルブレヒド2世が皇帝に選ばれてからは代々皇位を継承していった。 政略結婚によりマクシミリアン一世はスペイン、ブルグンドを併合して孫のカール5 世(スペイン王としてはカルロス1世)のときスペイン王を兼ね、最盛期を迎えた。
その後スペイン系はフェリペ2世が継いだが無敵艦隊の敗北などで国力は衰え、1700年には断絶した。

オーストリア系は1740年男系が絶え、マリア・テレジアがロートリンゲン候フランツ1世と結婚しプロイセンやブルボン朝の圧力に対抗した。 1806年ナポレオン1世によりフランツ2世が退位させられて、神聖ローマ帝国が消滅すると、以後単にオーストリア皇帝と名乗り第一次世界大戦後オーストリアは共和制となりハプスブルグ家も倒れた。

ハプスブルグ家はドイツ国王として神聖ローマ皇帝を兼ねていたため、世界国家の理念に立って超国家的政策を追及し、また事実上帝位を世襲していたため自己の勢力拡大に力を入れドイツの国家統一には関心を示さなかった。他のヨーロッパ諸国に比べ中央集権国家の形成が遅れたといわれる。



【マリア・テレジアの子供たち】

ハプスブルク家で唯一の女帝だったマリア・テレジアには5人の息子と11人の娘がいた。その内、大人になるまで生きたのは息子4人と娘6人。当時は天然痘で子供の半分が早逝する時代でしたから、これでも運のいいほうであった。マリアテレジアの子供たちが送った人生はどんなものであったをちょっとご紹介する。

まず、長女のマリア・アンナは体が弱かったので、一生を独身で過ごした。こういうときはよく修道院送りになったりするものだが、マリア・テレジアはプラハに女学校を作ってこの子をそこの校長にした。修道院に行くと演劇やコンサートを楽しむなんてことが許されなくなので良い考えであった。

長男のヨーゼフは父フランツ・シュテファンの死後(1765年)、皇帝の座に就いた。張り切っていろいろと改革をしようと乗り出したが、どれも準備不足でカラ回り。矛盾した法令を出したり撤回したり、保守勢力の教会を敵に回したりで、結局何の成果もあげないまま世を去った。ただ、本人が国民の役に立ちたいと思っていたまじめさだけはそれなりに理解され、のちに日本の水戸黄門みたいなノリで「隠れ民衆王ヨーゼフ2世」の作り話しがいくつもできた。

4女のマリア・クリスティーネは姉妹の中でただ1人、恋愛結婚を許された。相手はザクセン王家の傍系にあたる公子アルベルト。父のフランツ・シュテファンは「身分違いも甚だしい」とこれを拒んでいましたが、マリア・テレジアが「まあまあ!」といって諌めている。そのうちにフランツ・シュテファンは急逝。これで反対者はいなくなり、マリア・クリスティーネとアルベルトは無事結婚した。その後ハンガリー総督に抜擢されたアルベルトは、ウィーンに近いブラティスラヴァ(独名プレスブルク)にマリア・クリスティーネとの居を構えた。この夫婦は政治的に何ひとつ成果を出せなかったが、生活は幸福であった。また、高い教養をもつアルベルトの芸術品コレクションが世に残っている。その文化遺産を納めたウィーンの美術館は、アルベルトの名を冠して「アルベルティーナー美術館」と呼ばれているそうだ。

5女のマリア・エリーザベトはすごい美人で求婚が殺到という状態。どこの王家に嫁ぐのかと親の期待もいっそうだったのですが、24歳のとき痘瘡にかかってしまった。一命は取りとめましたが、その美貌は一夜にして失われた。それで、姉のマリア・クリスティーネがいるプラハの女学校に行った。


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マリア・エリーザベト

6女のマリア・アマーリエはドイツの小国プファルツ=ツヴァイブリュッケンの公子カールと相思相愛になったが、政略結婚で北イタリアのパルマ公フェルディナンドに嫁いだ。この8歳下の夫は教会の鐘を衝くことと栗を焼くことがお気に入りで、とても君主の器ではないハズレ。で、恋人との仲を裂かれたマリア・アマーリエは頭にきて自暴自棄となり、国政をムチャクチャに。最後はマリア・テレジアから勘当同然にされてしまった。その後パルマはフランス軍に占領され、マリア・アマーリエは1802年に夫が亡くなるとプラハの修道院に移っていった。

3男のレオポルトは父のご領地だったトスカーナ公国の大公になり、フィレンツェを中心としたこの国の文化・経済の発展に貢献した。その後兄ヨーゼフの死を受けて神聖ローマ帝国の皇帝となったが、在位2年で死去。名君の器だったので、惜しまれた死であった。

10女のマリア・カロリーネはガラが悪くて無教養なナポリ王に嫁がされた。可哀想であったが、夫は大ハズレでも、いい子供たちに恵まれたせいか、人が思うほど不幸になったわけではなかった。詳しい資料がないので断定はできないが、本人がヤケを起こした形跡がないことだけは確かだ。

4男のフェルディナントはモデナ公国というどうでもよさそうなところの公爵になった。まあ、こういう小国のお殿様なら、その後の人生もそれほど大変じゃなかったと思われる。実際に住んでいたのはモデナではなくミラノであった。そこの総督も兼任していたからである。ときには従者1人だけを連れて外出というおき気楽ぶりを発揮して、マリア・テレジアにお目玉をくらっていた。ミラノのスカラ座はこの人がいたときに、マリア・テレジアが建ててくれたものだといわれている。

11女のマリー・アントワネットはご存知の通り政略結婚でフランスのブルボン家に嫁いだ。が、これまた夫はダメダメ。マリア・テレジアの娘たちは本当に男運が悪い。ルイ皇太子(のちのルイ16世)があまりにスカだったので、マリー・アントワネットの心はインテリのスウェーデン人フェルセン伯爵に。ただし、フェルセンはまじめな人だったので、恋人というよりも親友であり続けたようである。最後はフランス革命で処刑されたマリー・アントワネットだが、フェルセンに出会えたことは唯一の救いといえるであろう。もっとも、フランスの民はマリー・アントワネットとルイ16世のおかげで大迷惑であったわけだが。

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           マリー・アントワネット


最後に、5男マクシミリアン・フランツは息子たちの中で最もデキが悪かったので、子供のうちから聖職者になるための教育を受け、ケルンの大司教になった。4男のフェルディナントと同様、気楽な人生を送った。

以上を見ていると、親の期待を受けなかった子供のほうが、幸福な人生を送る確率は高いようだ。「親の期待は愛情の裏返し」という人もいますが、そんな無責任な愛情は百害あって一利なしである。余計な期待で子供を潰すより、ある程度好きなようにさせてあげながら、黙ってそれを見守ってあげる大らかな愛情のほうがいいのだ。

それから、資産や力のある家との縁談も、本当に幸福につながるのかどうか、一度考えてみる必要がある。「資産は人を守ってくれる」というのは幻想で、多くの場合は「人が資産の番兵になる」というのが現実でしょう。モデナみたいな小国の番兵でよかったフェルディナントは気楽であったろうが、力量もないのにフランスという大国を押し付けられたマリー・アントワネットは気苦労が絶えなくてプッツンときていたようである。









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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
この展示会は、私も気になっていました!
縁あって観劇したミュージカル「エリザベート」は、計6回。
「ベルサイユのばら」も学生時代に出会っていたら、きっと世界史が好きになっていたはず…。
未だにヨーロッパ方面へ旅したことがないですが、イタリア周遊よりも‘オーストリア’に惹かれます♪
りえごん
2009/11/14 19:04
りえごんさんコメントありがとうございます。

ヨーロッパ・北欧はほとんどの国に旅していますが(大半は会社もち=出張)オーストリア・チェコ・ハンガリーなどの東欧にはぜひ行ってみたいと思っています。

古い町並みをみて歴史を感じるのもいいものだと思っています。

お金を貯めてぜひオーストリーへ行ってください。

Hamlet
2009/11/15 22:01

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