ハムレットの世情日記

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zoom RSS 【歴史】ベルリンの壁崩壊

<<   作成日時 : 2009/11/14 21:06   >>

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壁の上によじ登って喜ぶ東西両ベルリン市民(1989年11月11日)

歴史上の大事件の本当のところは、結果だけ知っていてもわからない。その始まりを知ることで核心にたどり着くことができるのだ。

 たとえば竹島問題。韓国名は独島(トクト)という。竹島の領有を確認し島根県に編入したと明記する明治38年の内閣告示が日本の主張。一方、竹島を日本の行政区域から分離するという太平洋戦争後のGHQの覚書が韓国の論拠である。総面積が日比谷公園ほどの島の領有権を争うのは、ズワイガニなどの豊富な漁場の確保にあるのだが、日本の植民地支配を受けた歴史から、韓国は警戒心を解くことができないのだ。

【ベルリンの壁】
 11月9日ベルリンの壁崩壊20周年記念式典が行われた。ベルリンの壁崩壊について2年前に受けた大学の授業【外交史】の資料をひも解いてみた。

 ベルリンの壁とは1961年〜1989年11月までの間東ドイツと西ベルリンを隔てた壁のことで東ドイツによって作られた。全長は155km。壁を乗り越えようとして192人が死亡、3,000人以上が逮捕され、5000人以上が脱出に成功した。
 また、ベルリンの壁崩壊の始まりは隣国ハンガリーにあった。東ドイツより民主化の進んだ東側のハンガリーが、オーストリアとの国境を開放した。すると、東ドイツからの出国者が殺到した。オーストリア経由で西ドイツに亡命する人は、1961年までに269万人に達した。1日6000人を超すこともあったという。やがて困惑したハンガリーが出国制限をする。ところが、国外への道を断たれた東ドイツでは、大規模な反政府デモが頻発し、もはや出国を認めざるを得なくなった。そして、壁の開放を容認すると、人々がベルリンの壁の検問所に集結。ついに国境警備隊はゲートを開けるしかなかったのだ。

 こうしてベルリンの壁の意味が失われていった。1989年11月9日ベルリンの壁は崩壊した。
壁は崩壊し、東西ドイツは統一されたが問題点は残された。それは東西ドイツの格差である。
失業率は旧東ドイツ20.6%、旧西ドイツ10.3%(2005)、所得は旧東ドイツ1687ドル、旧西ドイツ2431ドルであり、一級市民(西)と二級市民(東)という意識が芽生え、オスタルジー(何でも東ドイツ時代のほうが良かった)などにより心の壁が出来上がった。

 東西ドイツ統一にかかった費用はすべて西ドイツが負担しており1994年まで1150億DM(約10兆円)かかり増税でまかなわれた。ここにも西ドイツ国民の不満があるのだ。


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壁を越えようとして射殺された青年、ペーター・フェヒターの遺体を運ぶ東ドイツ国境警備隊(1962年)


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ライプツィヒ、政治的改革を求めるデモ参加者たち(1989年10月)


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国境が開かれた夜(1989年11月10日)






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